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最終更新日:2024年10月18日
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東洋古典学
月曜1限、『論語』を読む
東大生なら一度ならずお世話になる心のふるさと1号館が、新たな時代に適応するため改修工事に入る。ところがそのせいで、他の建物の稼働率を高める必要が生じ、1限の授業がいつもより増える。月曜1限が、これほど求められたことはない。
2020年度、コロナ禍の中で水曜5限に「東洋古典学」を開講したときは、『荘子』を読んだ。すべての授業がオンラインという異常事態の中で、現実を超越する『荘子』の思想が、切実さをもって迫ってきたからだ(受講生がどう感じたかは知らない)。頭が柔らかい前期課程のうちに『荘子』を読んでほしいという思いは今も変わらないが、休み明けの頭で逍遥の世界に遊んだのでは、その週の学習に影響しないとも言いきれない。今回、月曜の朝っぱらから学生を呼び出して何を読むか。『論語』だ。『論語』しかない。
とはいえ、先生の後についてみなで大声を出して『論語』の素読をするとか、『論語』の人生訓で寝ぼけた頭に活を入れるとか、そういうことをする気はない。ここは大学だ。原文で、辞書と自分の頭を使って読もう。もちろんいきなりは読めないから、注釈の助けを借りることになる。いや、注釈とは、単に読解の補助としてあるのではなく、古人が古典と格闘した記録でもある。注釈を読むことは、自らもまた注釈者とともに格闘することでもある。
もう一つ、普通に手に入る『論語』の訳とは違った視点を持って読もう。ここでは、伝承文学として『論語』を捉えてみたい。『論語』を読む人は、普通は、孔子の人や思想に迫ろうとする。それが間違いだというのではないが、「子曰く、述べて作らず」というように、孔子は自分で著作したのではない。『論語』に記された言葉は、何世代もの多くの伝承者の手を経たものである。テキストと向き合う中から見えてくるのは、孔子その人以上に、孔子の言葉を伝えようとした人々の思いであるはずだ。
こうした試みを通じ、既存の訳を読むよりも深く『論語』にふれることができたなら、目標は達せられたことになる。
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