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最終更新日:2026年10月1日

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表象文化論実験実習II

「青春」のからくり
【本授業は、2026年度Sセメスターに開講された《授業のからくり》の最終成果物として七名の受講生が共同制作した(本)シラバスを上演する試みです。シラバスの執筆分担に関しては以下のリンクを参照してください:https://shorturl.at/*****

この授業では、「「青春」(より正確に言えば、東京大学表象文化論コースの大学院生にとっての「青春」)とはそもそもなにか」を、参加者全員で考察する。既成のフォーマットとしての「青春」が、どのような要素から構成され、どのような条件のもとで作動しているのかを、一度ばらばらに分解してみるのだ。
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偉い人が18時47分頃といい張るからに、先から口を開きもって首をもたげるも、ふと──ふとしてそれを見るとき、ふっと見たときに限ってそれはそのどこにも見当たらなくて、ついぞ「ユウヒ」を見たことはありましたか?いや、今むしろその跡形もない漆黒と自分の環世とが同化し──
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覚ましたとき、この世界がフラクタルであったことの直感に先んじたのは空の青。さっと太腿のあたりから血の気が引いていっては、おちては、おちてその深い青に墜ちてその留まることを知らず──ふっと頭上の若葉が風に吹かれたらば。
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以上に記述されているのは、誰かの青春の経験が綴られた一節である。他者の青春の経験と、彼/彼女らによるその経験に関する記述は、いささかそれが自分自身の経験と重なってしまった時、陳腐化する。他者が自身と同型の経験を持っていることを知ってしまうと、輝きを持っていたはずの記憶は陳腐なもののように思えてしまう。無意識のうちに既存のパターンをなぞり、そのなかで感動し、涙していたことに気づくと途端にやるせなくなる。こういった経験はないだろうか。われわれは井の中の蛙であるほうが、かえってこの「青春」というゲームを楽しむことができるのかもしれない。このゲームを楽しむ条件は、鈍感と敏感を両立させることである。見えないように一定程度封をして、「没入」を保たなければならない。考えすぎてもいけないし考えなさすぎてもいけない。
 真に「青春」を生きている者は通常、自分が今「青春」を過ごしているのかどうかを、わざわざ問いには付さない。自分自身に対して、あるいは「青春」という現象に対してメタ的な視点を取り始めたとたん、「青春」はその手からこぼれ落ちていく。
 対して本授業の参加者は、「青春」という既成のフォーマットを、その外から分析することになる。この作業はもちろん、自分の生と「青春」とのあいだの距離を測る作業でもある。したがってこの授業は、参加する学生たちを、まさにその手続きによって「青春」から遠ざけるものとして機能する。
 とはいえ、それでもなお──この授業への参加そのものが、ひとつの「青春」として経験される可能性は、残されているかもしれない。だとすれば本授業は、現象を外側から分析することと、現象に内在することのあいだの往復、両者の境界、あるいはその境界の脆弱さについて考える場ともなりえるはずだ。
 分析にあたっては、「青春」を分析する方法が、世間で想定されている青春像と自身の青年期の自分を比較するという鉄板の手法に陥りがちであることを前提として認識した上で、青春の意味や意義や意匠を拡張(または縮小)することを考えるのか、若しくは出発点を青春とは少しも関係のない事柄から始めるのかといった模索から得られる学びを学びとすることになる。
 たとえば「青春」をある種の再演/実践として捉えるならば、この授業の参加者は演者でありながら、自分たちを見る観客でもあるという二重性を生きており、その実践を後から「マニュアル」として記述しようとするとき、身体の記憶と記述のあいだに埋めがたい「スキマ」が生じる。この「スキマ」こそ、青春を生きることと青春を分析することの境界の在り処を、最も具体的に示しているのかもしれない。
 以上のような探究の途上で、われわれはさらに次のような一連の問いに遭遇せざるをえないだろう。──表象文化論はその青春時代の終わりを迎えつつあるのだろうか。ある学問の誕生と成熟と変容とはいかなる事態であろうか。「開拓」すべき学術・技芸(ars)の「フロンティア」はいったいどこにあるのか。そもそも「論」や「学」を対象化するとき、どんな手立てを講じるべきか……。本授業が、われわれ自身のディシプリンが置かれた状況を認識し、ある学問の生のなりゆきをしみじみと回顧した上で、模索し続けるための「オリエンテーション」になりうることも期待される。
 オリエンテーション……そう、青春はおそらくオリエンテーションなのである。それ自体楽しく、そして何かが始まりそうな予感によって突き動かされるような……当然ながら人生はオリエンテーションだけではない。オリエンテーションの後の、退屈で長いセメスターがあなたを待っている。しかし、幸運にも、退屈なセメスターの中にも、オリエンテーション的な断片が顔をのぞかせることがある。そう、この授業は、途方もない退屈さの中で、青春的なものを感じとるための訓練、あるいは何とかやっていくための訓練と位置付けることが出来るだろう。
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時間割/共通科目コード
コース名
教員
学期
時限
31D210-0341A
GAS-IC6A29S1
表象文化論実験実習II
中井 悠
A1 A2
月曜4限
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講義使用言語
日本語
単位
2
実務経験のある教員による授業科目
NO
他学部履修
可
開講所属
総合文化研究科
授業計画
@中井先生 記入した分量が多すぎて、この欄は表示環境によっては途切れてしまうようです。その場合、お手数ですが、セルをクリックして内容をご確認ください。第13回まであります。【8/1 12:30追記】 第1回 「オリエンテーション」 第2回 「青春・広告・批評」 どの授業を履修するか吟味することを、英語では shopping と表現する。そうだとすれば、「シラバス」は潜在的な買い手──授業の履修者──に対する一種の広告として機能することが期待される。本授業では、いまこの教室に居合わせていることだけをさしあたり唯一の共通項として、本シラバスの効用を検討する。──あなたは何によってこの授業を青春することになったのか。この授業は本当に青春すべきものなのか。どのような授業なら青春したいのか。ありうべき何か別の授業で他人に青春させるためにはどうすればよいのか。……その考察の手がかりとして、行動主義心理学の創始者であり、悪名高い「アルバート坊やの実験」で知られ、のちに広告業界で活躍することとなった John B. Watson の論文 “Influencing the Mind of Another” (1935) を読む。この回では、ごく標準的な人文系の演習にならい、(事前に提出されたレスポンスをめぐる)討議を含む文献講読の形式を採る。議論の帰結として、シラバスの大幅な書き換えを含む授業計画の改竄を行ってもよい。 第3回 「「青春」と恋愛」 青春という現象は、しばしば恋愛と不可分のものとして表象される。青春映画・青春ドラマの多くは何らかの形で恋愛的要素を含み、これは楽曲やCMといった他のメディア形式においても同様である。本回では、「青春」という現象への理解を深めるという本講義全体の目的を踏まえたうえで、「青春」と恋愛の連関を視野に入れつつ、恋愛という具体的な対象について考察することを目指す。  それにあたっては発表形式を採る。事前に担当者を1〜3名選出し、まずは各担当者が自身の関心に即して、恋愛というテーマで15〜20分程度(レジュメ2〜3枚相当)の報告を行う。報告終了後、これを踏まえた全体討議に移行する。報告は具体的な作品分析や経験の記述から出発する形式でもかまわないが、最終的には原理的・理論的な考察に接続されることが望ましい。報告の準備および全体討議にあたっては、参考として挙げる問い・トピック、キーワードに掲載した映像作品・音楽・文章を参照してもよいが、しなくてもよい。もちろん、それらすべてに目を通しておく必要はない。 【問い・トピック】 ◯「青春」において、恋愛はいかなる地位を占めているのか。逆に、恋愛にとって「青春」はいかなる意味を持つのか。 ◯演技はいかにして恋愛の問題になるのか。 ◯メディアのなかで流通する恋愛イメージが、実際に経験される恋愛とどう関係しているのか。 ◯恋愛において「戦い」とはなにか。 ◯二者関係としての恋愛に、「第三者」はいかにして関与しうるのか。 ◯「告白」概念の系譜 ◯「青春」と「アオハル」の差異 ◯ソーシャルゲームとしてのマッチングアプリ 第4回 無計画 この回はAセメスターの受講者たちで任意に計画してください。 第5回 「ドロケイ!」 それまでにどのようなことが起こっていたとしても、この回ではドロケイをしてください。  「青春」を論じることはできる。定義することもできる。映画や小説を分析し、その構造を抽出することもできる。しかし、それらをどれほど積み重ねたとしても、「青春」はどこかでするりとその手を抜け落ちてしまう。だから、この回では一度、そのような営みを中断する。  ドロケイをしてください。  ルールは単純である。警察と泥棒に分かれ、追い、逃げ、捕まえ、助ける。ただそれだけである。しかし、その「ただそれだけ」のなかには、役割を演じること、他者との距離を測ること、身体を預けること、勝敗に一喜一憂すること、そして気づけば終わってしまっている時間を惜しむことなど、「青春」をめぐってこれまで考えてきた多くの契機が、説明されることなく含まれている。  もちろん、この授業が終わったあとで、「あれは青春だった」と分析することはできるだろう。しかし、その分析はつねに事後的なものである。まずは分析することを忘れ、ドロケイをしてください。それがよいのです。 第6回 「青春と面を向かって」 本回では、その「青春」の経験を一度手放し、外側からあらためて眺め直す。  ここで難しいのは、青春に対しての「これこそ」の手順が常に事後的にしか書かれ得ないという点である。実践の渦中にいる者は、自分がいま何を行っているかを完全には言語化できない。ルールの隙間に滑り込む「細かい身体感覚」や、筋肉の疲労・視線の交錯がもたらす統御不可能なノイズは、可視的な記述としてのマニュアルには収まりきらない。日本の伝統芸能である雅楽において、身体的・声楽的な連なりとしての「歌」と、抽象化・記述化された「譜面」とが分かれているように、マニュアルと現場の身体感覚のあいだには、つねに埋めがたい「スキマ」が残る。  本回の後半では、学期のちょうど中間に差し掛かるタイミングを活かし、履修者全員で「青春」を見直す時間を設ける。形式はごく普通のラウンドテーブルとする。まず各自がお互いのこれまでのレスポンスペーパーを読み返し、感想を述べていく。目指されているのは過去の議論の要約ではなく、「青春」について考えている(あるいは、気づけばすでに「青春」をしてしまっている)「私」、そして「私たち」を、一度授業の外側に立って眺め直すことである。ここまで各回で採られてきたアプローチ──「時間」に抗して「空間」を軸に据えるもの、計画(プログラム)に抗して流れを軸に据えるもの、教室の外に出るもの、外部から人を招くもの等──も、この「外から見る」所作の変奏として捉え直せるだろう。  この「マニュアルを事後的に書く」営みそのものが、「青春」を分析する方法の縮図でもある。渦中では「青春」として名指されなかった経験が、後になってはじめて、あれは青春だったと回顧的に名づけられ、語り直される。「青春の再演」ともいうべきこの回の実践は、青春を生きることと青春を分析することのあいだの境界、その脆さそのものを、身体を通じて考える場となるはずである。 第7回 セメスターの折り返しであるこの回では、18号館裏に位置する陸上トラックで散歩を行う。折り返しともなると、本授業における人間関係がほとんど形作られているだろう。この散歩においてはその人間関係を再構築する。過去の人間関係をでっち上げ、あたかも元からそうであるかのように振る舞ってもらう。例えば小学校来の一度離れ離れになった親友達や数世帯で一緒に住んでいる家族、あるいはヒエラルキーの存在するクラスメートなど、他の参加学生への話し方にまで作用するような人間関係を設定して、演じながら散歩をしてもらいたい。役割を演じながら集団で陸上トラックを散歩していれば、他者の目が気になってくる。しかし、その他者の目の存在すら、この新たな人間関係の基づくコミュニケーションが行われる奇妙な世界に取り込んでみるように努めてほしい。それは誰のどういった目線なのか、それを自分が演じる人物(人でないかもしれない)はどう解釈し、反応するのか、考えてみてほしい。この回で演じたことが、次回以降にも引きずられているような人間関係を模索する散歩を追求してもらいたい。事前課題は、他の受講者と被らないような人間関係のアイデアを考えてくること。 第8回 「青春それ」 ——振り返ったとき、スプレッドシートへの記録・予め各自が準備する課題・次回の準備としてのメールのやり取り・そして私たちは今もいつも通りの席に座っている・・・!?具合に、知らず知らず何等かの形式に固定されつつある(生み出しつつある)感ある。今一度、「授業を考える」という趣旨に回帰するのがよいのか、或いは「授業を考える」ことを考える中で創発している今の状態が趣旨そのものだったか、独り、共有されている何等かを捉え損ねている気もあります——(Sターム該当回のレジュメより)  「とは何か」とは何か、引いて、「を考える」とはどういったことか——を議論することの意義は果たしてどこまで認められるか。それはそれとして有意義の「ミサ」に終わらない、こういったことを改めて考えらる回にされたい。具体的に、今俎上にあがるその「青春」は本当に考えられるか、考えられてきたか、否「青春について」のそれではなく、「青春それ」を考えられるか。このような趣旨である。  「青春」。それに付随してここまでに蓄積された、文字通りの「言葉」を卓上に並べられるでしょうか。毅然として、それとして並ぶそれら言の葉を眼前に、今、そこで我々はどうしますか? ******** 言の葉を目の当たりに、今こそ我らが身体において我々は「セイシュン」に同化できるだろうか。無論できないだろうか。私たちには、身体的実践を営んで欲しい。 ~追記~ 四角い箱があって、それを開いてみたんですね。したら中に一回り小さい箱が入っていました。一呼吸おいて、その箱の中を覗いてみたら、そこにはまた一回り小さい箱が入っていたんです。そして、その箱をぱかっと開くと、その中に小さな小さな箱が入っていて、その中にやっぱりまだ小さな箱があって、その中身は小さな箱でした。その小さな四角い箱の中にある箱の中の箱に入ってみたら——それは、それは万年の大木にぽっかり包まれたみたいく、心地よさがあると思うんです。 ~追々記~ 授業が組みたって組みたち、そこに確かに宿ることを強く確信します。 第9回 「はなればなれに」 今学期に、自分と同じ授業(※本授業でなくてもよい)を履修している任意の人(1名以上)を誘って映画を観に行く。映画に誘い、待ち合わせ、会話を交わし、別れるまでの一連の出来事については、ひとまず各自の胸の内に留めておくこととする。そのうえで授業では、誰かと一緒に観た映画の経験──誰かと一緒に映画を観るという経験ではない──から、どのような洞察が得られるのかを議論する。なお、相手に対して、その誘いが本授業の一環であることを伝えても、伝えなくても構わない。むしろ、この課題を自分自身への口実として利用し、「もっと話してみたい」と思っていた相手に声をかけるきっかけにしてもよいだろう。もちろん、こちらには、あなたが本当に誰かを誘って映画を観に行ったかどうかを確かめる術はない。だから、すべて、あるいは一部をでっち上げることも不可能ではない。もっとも、その嘘を最後まで貫き通せるだけの自信があるのなら、という条件付きではある。この回は、参加者がおおむね誰かを誘って映画を観に行き終えた頃合いを見計らい、学期中のどこかのタイミングで実施する予定である。そのことをここであらかじめ予告しておく。 第10回 「青春ってさ、ダサくない?」 倦怠感が拭えない。先週と同じ道、同じ階段。授業時間が異常に長く感じる。教室の中だけがなぜか重力が強くなった気がして、喉の奥や腹の底が重い。喉が言葉を出し渋っている。授業に参加してるみんなは、この学期の間なにをしてたんだろう?それぞれ自分の仕事に勤しんで、友人と遊んだりしている。私はなにをしてたんだろう?先週の授業で各自友人を誘って映画を見たけど、これなんの授業なんだっけ?青春?あれだけがんばって勉強して自分は今「青春」について考えている?なぜだろう?どういうことだろう?研究をするためにここに来たのではなかったか?今日は一旦課題など無しにしよう。代わりにお互いがなにを思ってこの授業を受けていたか、演技を通じて確かめたい。 〜第10回の授業の台本〜 ①授業参加者のなかで、任意の方法でペア(トリオでも可)を決める。 ②これまでの8回の授業でそれぞれ交流したなかで、お互いの身振りや話し方をある程度知ったはずである。ペアになった相手の身振りや話し方や話題の傾向を真似て演技する。 ③演技を継続した状態で、全員で話す(30-40分)。自分自身の近況や前回の映画鑑賞の経験について話す。 ④次に、ペアと演技の対象を交換する(自分に戻る)。その際、相手が自分を演じていた際の身振りを演じる。つまり、演じられていた自分を演じる(40分)。 ⑤演技をやめて、残りの時間で二重に演技をした際の経験を述べる。  第11回 無計画 この回はAセメスターの受講者たちで任意に計画してください。 第12回 「無理やり!」 青春には、理由のない決定が少なくない。  席替え、班分け、文化祭の出し物——その多くは、十分な熟慮の末に決定されるというよりも、くじ引きやじゃんけん、その場の空気で何となく決まる。そして、その偶然が、その後の人間関係や出来事を大きく左右することがある。本回では、そのような青春に潜む偶然性を考える。  ①受講生の間で結論を出す必要があるもの(例えばシラバスの作成法)などを1つ考える  ②無理やりにでも結論を出してくれるような方法を1つ考える(例えばタロットカード)  ③無理やり結論を出す  ④結論を批判することなく受け入れ、それを踏まえてどういう風に進めていくかという建設的な議論に集中する  タロットカードを例に挙げれば、それは未来を予言する道具というよりも、「いま、このカードが出たからには、そのように読んでみるしかない」という偶然への服従を要請する装置である。それは席替えのくじ引きや、進路を左右した些細な選択ともどこか似ている。青春とは、自らの意思によって切り拓かれるものだけではない。偶然を引き受け、その意味をあとから編集し続けることによって立ち現れるものでもある。完成するものは、おそらく誰一人として最初から望んでいたものではない。しかし、それでもなお、それに従ってみたいと思えるならば、それは「青春」という現象もまた、計画ではなく編集によって成立することの証左になるのかもしれない。 第13回 「青春の終わり(?)」 (最終回にあたる)本回では、この言葉を文字通り実践する。各自はまず、教室を出て、カメラを一台携えて街へと向かう。行き先や時間の長さに制約はない。ただし、条件がひとつだけある。撮影する対象は、「青春」という言葉をあらためて念頭に置きながら選ぶこと。  なぜカメラなのか。これまでの回で繰り返し検討してきた経験を事後的に言語へと変換する装置であったのに対し、カメラは経験を言語化する手前で、いったんイメージとして切り取る装置である。街を歩きながら何にレンズを向けるか迷うその瞬間、シャッターを切るかどうかを決めかねるその一瞬にこそ、「青春」の分析にはうまく回収しきれない何かが宿っているのではないか。教室に戻ったのち、参加者は撮ってきた写真(あるいは短い映像)を持ち寄り、それぞれがなぜその対象にレンズを向けたのかを言葉にしてみる。  ここで撮られる映像は洗練されている必要はない。未熟で構わない。むしろその未熟さ、粗さこそが、整然とした文字:レジュメ、レスポンス、レポート、論文などの秩序に対する、ささやかな「アナーキー」として機能する。「青春」が、直視しようとした瞬間に手からこぼれ落ちるものだとすれば、レンズという迂回路を通してしか、その検証は成り立たないのかもしれない。
授業の方法
上掲の「授業計画」においては、Sセメスターに実施した各回の報告──すなわち授業「授業のからくり(表象文化論の場合)」のアーカイブ──を基調として、実施すべき授業内容を提案したり、そうした過去の事跡を仄めかすようなインストラクションを書きつけたりした。しかし、Aセメスターでは参加者間の合意により、詳細なスケジュールや計画を(上掲の記述にもかかわらず)一切決めない状態で進めてもよい。したがって、本項目ではあらかじめ決められた進行表の代わりに、セメスターを通じて扱いうる問いのリストを掲載しておく。以下はあくまで、この⻘春という実験が向かいうる方向のいくつかを示す、参考程度のものであり、このどれかを必ず扱うという保証はないし、ここに書かれていない問いが扱われる可能性も十分にある。 A - 舞台 《放課後の教室》とはなにか/なんでありうるか 《グラウンド》とはなにか/なんでありうるか 《あなたとの距離(空間)》とはなにか/なんでありうるか 《気温》とはなにか/なんでありうるか 《職場》とはなにか/なんでありうるか 《老人ホーム》とはなにか/なんでありうるか 《家》とはなにか/なんでありうるか B - 配役 《なにものでもない私としての学生》とはなにか/なんでありうるか 《せんせい》とはなにか/なんでありうるか 《クラス》とはなにか/なんでありうるか 《ヒエラルキー/カースト》とはなにか/なんでありうるか C - 前口上 《出会い》とはなにか/なんでありうるか D - 装置 《部活/サークル》とはなにか/なんでありうるか 《電話》とはなにか/なんでありうるか 《スマホ》とはなにか/なんでありうるか 《友情》とはなにか/なんでありうるか 《孤独》とはなにか/なんでありうるか 《暇》とはなにか/なんでありうるか 《マッチング》とはなにか/なんでありうるか E - 脚本 《ラブレター》とはなにか/なんでありうるか 《文学》とはなにか/なんでありうるか 《SNS》とはなにか/なんでありうるか 《進路》とはなにか/なんでありうるか F - 時間 《若さ》とはなにか/なんでありうるか 《老い》とはなにか/なんでありうるか 《限りある時間》とはなにか/なんでありうるか 《思い出》とはなにか/なんでありうるか 《休日・祝日》とはなにか/なんでありうるか 《時間性》とはなにか/なんでありうるか 《少年/少女》とはなにか/なんでありうるか G - 行為 《対面》とはなにか/なんでありうるか 《顔》とはなにか/なんでありうるか 《旅》とはなにか/なんでありうるか 《遊ぶ》とはなにか/なんでありうるか 《ひきこもる》とはなにか/なんでありうるか 《存在》とはなにか/なんでありうるか 《読書》とはなにか/なんでありうるか 《勉強》とはなにか/なんでありうるか H - 逸脱 《遅刻》とはなにか/なんでありうるか 《不倫》とはなにか/なんでありうるか 《裏切り》とはなにか/なんでありうるか 《嘘》とはなにか/なんでありうるか 《いじめ》とはなにか/なんでありうるか 《欠席》とはなにか/なんでありうるか I - 結果 《涙/汗》とはなにか/なんでありうるか 《宿題》とはなにか/なんでありうるか 《卒業》とはなにか/なんでありうるか 《放課後》とはなにか/なんでありうるか 《受験》とはなにか/なんでありうるか 《満足/不満足》とはなにか/なんでありうるか 《公平性》とはなにか/なんでありうるか 《判断》とはなにか/なんでありうるか J - 制度 《モラトリアム》とはなにか/なんでありうるか 《大学/大学院》とはなにか/なんでありうるか 《家族》とはなにか/なんでありうるか 《国家》とはなにか/なんでありうるか
成績評価方法
出席、課題、参加を踏まえた自己採点
履修上の注意
本授業では、大学(院)という教育・研究の場を成り立たせている黙契や慣習のたぐいは、おおよそすべて棚上げにする。ただし、本授業が参加者各人にとって有益なものとなるかどうかは、各自の目的設定と効果測定、そしてその都度の修正の精度にかかっていることには留意されたい。  本授業の意義を測定するための一つのアプローチとして、慣習の棚上げがもたらしたものへの注目がある。「青春」について考えるというたてつけを採ってはいるものの、それは一つのアリバイでもある。「青春」と直接関係しない多様な話題が持ち寄られたり、各人が持ち寄った断片同士が予期せぬ仕方で結びつき、興味深い着想へと発展したりする、そうした事態の頻発にこそ、この授業の賭金があるといえなくはないのだ。このとき慣習の棚上げは、通常の授業のフォーマットにおいては発信しがたい断片たちを持ち寄るよう、それぞれの学生を触発するものと見なすことができる。ゆえに棚上げの意義について考えるうえでは、具体的にはどのような特異な断片の持ち寄りが可能になったのか、そしてその断片が、授業を通じてどのようなものに結実したのかを考慮に入れる必要があるのだ。  授業(教室)外で生じた偶発的な出来事として、後日「本来無関係な二つの系列の同期としての事件」という主題のもとで授業内に取り込まれた例がある。すなわち授業外の出来事は、起きた瞬間ではなく、誰かがそれを言葉にし共有した時点で、遡行的に授業の材料へと組み込まれる。授業外の出来事は、それが「反映」された時点ではじめて授業の一部となる、という事後性そのものにも注意を払っておきたい。「青春」を分析するための方法論そのものの縮図として読むこともできる。  また、授業の外部で授業と並行して起こった出来事を授業内での活動に反映させて良いということにも留意されたい。反映させるというのは、自身の態度に限らず、授業の関係者でない者を授業に連れてきたり、授業そのものを別の場所で行ったり、本授業とは別にコピーした授業を作って諸要素を満たすような展開してみたりすることである。 *******  くれぐれも、あなた自身の身体をあなたの手から離さないのがよいかしれません。もっとも、もし仮に否そうしてしまったとき——図らずもそうなってしまった場合に——決して、決して、それをあなたの背後に、背後には求めないほうが、求めないのがよいかしれませんがどうか。   「この授業は授業ではない」と強く自己暗示をかけてみる、というのも1つ推奨できる態度である。本授業はおそらく、授業にしては面白く、遊びにしては退屈なのである。しかし、授業ではないものの中に案外しっくりくるものがあるかもしれない。これは料理にしては面白いのか? コントにしては? あるいはリゾートホテルのプール横のベンチで見る甘美な夢の一部だとしたら?
その他
後期課程で今セメスターに開講している《経験の上演(reprise)》と連動している部分があるため、関心があればそちらも受講/聴講してもらえるといいです。