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最終更新日:2026年10月1日
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表象文化論実験実習II
「青春」のからくり
【本授業は、2026年度Sセメスターに開講された《授業のからくり》の最終成果物として七名の受講生が共同制作した(本)シラバスを上演する試みです。シラバスの執筆分担に関しては以下のリンクを参照してください:https://shorturl.at/*****
この授業では、「「青春」(より正確に言えば、東京大学表象文化論コースの大学院生にとっての「青春」)とはそもそもなにか」を、参加者全員で考察する。既成のフォーマットとしての「青春」が、どのような要素から構成され、どのような条件のもとで作動しているのかを、一度ばらばらに分解してみるのだ。
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偉い人が18時47分頃といい張るからに、先から口を開きもって首をもたげるも、ふと──ふとしてそれを見るとき、ふっと見たときに限ってそれはそのどこにも見当たらなくて、ついぞ「ユウヒ」を見たことはありましたか?いや、今むしろその跡形もない漆黒と自分の環世とが同化し──
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覚ましたとき、この世界がフラクタルであったことの直感に先んじたのは空の青。さっと太腿のあたりから血の気が引いていっては、おちては、おちてその深い青に墜ちてその留まることを知らず──ふっと頭上の若葉が風に吹かれたらば。
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以上に記述されているのは、誰かの青春の経験が綴られた一節である。他者の青春の経験と、彼/彼女らによるその経験に関する記述は、いささかそれが自分自身の経験と重なってしまった時、陳腐化する。他者が自身と同型の経験を持っていることを知ってしまうと、輝きを持っていたはずの記憶は陳腐なもののように思えてしまう。無意識のうちに既存のパターンをなぞり、そのなかで感動し、涙していたことに気づくと途端にやるせなくなる。こういった経験はないだろうか。われわれは井の中の蛙であるほうが、かえってこの「青春」というゲームを楽しむことができるのかもしれない。このゲームを楽しむ条件は、鈍感と敏感を両立させることである。見えないように一定程度封をして、「没入」を保たなければならない。考えすぎてもいけないし考えなさすぎてもいけない。
真に「青春」を生きている者は通常、自分が今「青春」を過ごしているのかどうかを、わざわざ問いには付さない。自分自身に対して、あるいは「青春」という現象に対してメタ的な視点を取り始めたとたん、「青春」はその手からこぼれ落ちていく。
対して本授業の参加者は、「青春」という既成のフォーマットを、その外から分析することになる。この作業はもちろん、自分の生と「青春」とのあいだの距離を測る作業でもある。したがってこの授業は、参加する学生たちを、まさにその手続きによって「青春」から遠ざけるものとして機能する。
とはいえ、それでもなお──この授業への参加そのものが、ひとつの「青春」として経験される可能性は、残されているかもしれない。だとすれば本授業は、現象を外側から分析することと、現象に内在することのあいだの往復、両者の境界、あるいはその境界の脆弱さについて考える場ともなりえるはずだ。
分析にあたっては、「青春」を分析する方法が、世間で想定されている青春像と自身の青年期の自分を比較するという鉄板の手法に陥りがちであることを前提として認識した上で、青春の意味や意義や意匠を拡張(または縮小)することを考えるのか、若しくは出発点を青春とは少しも関係のない事柄から始めるのかといった模索から得られる学びを学びとすることになる。
たとえば「青春」をある種の再演/実践として捉えるならば、この授業の参加者は演者でありながら、自分たちを見る観客でもあるという二重性を生きており、その実践を後から「マニュアル」として記述しようとするとき、身体の記憶と記述のあいだに埋めがたい「スキマ」が生じる。この「スキマ」こそ、青春を生きることと青春を分析することの境界の在り処を、最も具体的に示しているのかもしれない。
以上のような探究の途上で、われわれはさらに次のような一連の問いに遭遇せざるをえないだろう。──表象文化論はその青春時代の終わりを迎えつつあるのだろうか。ある学問の誕生と成熟と変容とはいかなる事態であろうか。「開拓」すべき学術・技芸(ars)の「フロンティア」はいったいどこにあるのか。そもそも「論」や「学」を対象化するとき、どんな手立てを講じるべきか……。本授業が、われわれ自身のディシプリンが置かれた状況を認識し、ある学問の生のなりゆきをしみじみと回顧した上で、模索し続けるための「オリエンテーション」になりうることも期待される。
オリエンテーション……そう、青春はおそらくオリエンテーションなのである。それ自体楽しく、そして何かが始まりそうな予感によって突き動かされるような……当然ながら人生はオリエンテーションだけではない。オリエンテーションの後の、退屈で長いセメスターがあなたを待っている。しかし、幸運にも、退屈なセメスターの中にも、オリエンテーション的な断片が顔をのぞかせることがある。そう、この授業は、途方もない退屈さの中で、青春的なものを感じとるための訓練、あるいは何とかやっていくための訓練と位置付けることが出来るだろう。
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