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最終更新日:2024年3月15日
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倫理Ⅰ
よく「生きる」とはどういうことか。
《人間探求 自己探求としての倫理、そして、他者とともにこの世界で生きるための倫理の探求。特に「生命」の観点から。》
「よく生きるとはどういうことか。」
これは個人の生き方の問題であり、個人的で私的なものとしてひそやかに論じられるべき問題だろうか。それとも、社会において、また、公の場面において、広く論じられるべき問題だろうか。
人間が他者とのかかわりの中に生活するものであるとすれば、他者との関係をぬきにして、よく生きるという問題を考えるとは現実的ではないだろう。もっとも小さい人間関係を想定するとしても、この世に生をうけて、よく生きる、について問うている「わたし」がそこに存在している以上、その問いを立てている「わたし」をそこまではぐくんだ人たちたちとのかかわりを抜きにして「わたし」を考えるのはあまりにも空疎ではないだろうか。(またその「わたし」は、永遠不変というよりも、幼子でありまた青年、壮年、老年期を迎えるであろううつろいゆく存在であることも考えに入れておくべきだろう)。
もちろん、「XXとは何か」「XXとはどういうことか」という問いを立てるならば、思惟はおのずから抽象度を高めてゆくだろうし、そのことによって、普遍性を得ていくことにもなろう。
また、よく生きることへの問いを、よく生きるための方法論の解明に向けて探求するということもありえる。その場合、よく生きるとはどういうことか、という問いは、どうしたらよく生きることができるのか、という問いにも言い換えられるだろう。そのようにして、よく生きるための技法も問われるだろう。
人間の生が目的や意味の認識に基づいて意志的にかたちづくられるものであれば、なおさら、なぜ、何のためという問いとともに、どのように、いかにして、という問いも必要となるだろう。
(しかし、同時に、人間の生がそのように認識や意志によって形成されるものに尽きるのかどうか、ということも改めて問い直さねばらないだろう。つまり、人間が理性的・意志的な主体であるという設定や、それにもとづく自由や幸福についての考え方などがいかほどのものであるのか、その起源・源流を含めて、改めて問い直さねばならないだろう。)
また、そうした問いの数々のさきに、いかなる答えがあるのだろうか。それは個人的なものなのか、それとも、個人的なものを超える普遍性や客観性をもつものなのか。後者でないならば人間共同体はなにをもってよい生き方やよい社会の秩序を構成できるのだろうか。また後者であるならば個人の自由な発想や選択の余地は確固とした普遍的なもの、客観的なもののなかでどのようにみとめられるのだろうか。
この授業ではこうした諸問題を念頭に置きつつ、さまざまなテキストを手がかりにしながら、人間が生きるための根本問題を探求する。それは一方では、わたしがいかに生きるべきか、わたしが生きる意味は何か、という人間探求、自己探求という形をとり、そこから幸福や自由が課題として浮かび上がる。他方、わたしが生きるのは、いまここにおいて、であり、それは過去から未来とのつながり、また、そこにとも生きる人々とのつながりから切り離し得ない以上、他者とともにともにこの世界で生きるとはいかなることか、という探求も必要となる。そこから、他者、自然、生命、世界、正義、愛、人間の尊厳という課題が浮かび上がる。22年度については、特に、生命、身体、そして、野蛮という問題から考えてみたい。そうした探求の手がかりとなるテキストをともに読み、対話によって互いの理解を共有しながら、自らの考えと言葉を深めてゆく。そのために思考停止せずに考え続けることが重視される。
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