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最終更新日:2024年10月18日
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社会・環境・健康と東アジアIII(6)
映像と哲学
【授業の概要】
創作および研究において第一線で活躍されている方々をゲスト講師としてお招きし、「映像と哲学」をテーマに講義を行っていただく連続講義。本学教員の國分功一郎と美術家の村山悟郎が共担の形で受け持つ。一回二コマで、後半には何らかのワークを盛り込む。
講師として、次の方々をお招きする(敬称略)。
星野太(美学者、本学教員)、太田光海(映画作家/人類学者)、濱口竜介(映画監督)、小泉明郎(アーティスト)、小森はるか(映像作家)+瀬尾夏美(アーティスト)。
【授業の企画意図】
20世紀は哲学にとって、言語への密着度が高まった時代であった。文学が哲学の中で堂々と論じられたところにそれが現れている。そもそも20世紀の哲学は言語そのものをその中心テーマの一つとしていた。なぜなのだろうか。そもそも哲学は言語と切り離せない営みであったのだ、哲学の本質の一つが前景化したのがあの時代であったのだと言ってこのことを説明することもできよう。
だが、21世紀に入って20年以上が経った今の時点から20世紀の哲学を眺めてみるならば、そのような本質論はさほど説得力を持たなくなってきている。20世紀に哲学があれほどまでに言葉に接近したのは、簡単に言えば、近代小説が一通り出揃い、それが知的営みに携わる人々の共通の教養だったからではないだろうか。もっと言うと、19世紀に書かれた小説を読んでいることが、20世紀の教養の条件だったからではないだろうか。だからこそ、哲学もまた文学にあれほど接近したのではないだろうか。
では、現在、そのような教養の前提はなおも続いているのだろうか。あくまでも印象論で話を進めるならば、その前提には大きな変動があったと言わねばならない。もはや近代小説はそれが20世紀に果たしていたような役割を果たしてはいない。文学の地位は変わった。
ならば、21世紀の共通の教養とは何か。ハッキリ言えば、それは20世紀の映像、とりわけこの世紀の映画であろう。有名な映画を観ていることは21世紀の教養の条件になっている。また哲学・思想の研究においても、映画論が以前とは比較にならないほどその比重を増しつつある。文学は読まなくてもよいとか言いたいわけではないし、これは嘆かわしいことだと言いたいわけでもない。ただ単に、メディア環境の変化が教養の条件に変化をもたらしたと言いたいのである。20世紀を「映像の世紀」と特徴付けることはそれほど特殊な見方ではあるまい。
だとしたら、21世紀という時代において「哲学」に携わるためには、「映像」についての知識や思想が必要になるのではなかろうか。かつて「言語とは差異の体系である」という定義(ソシュール)は常識であり、この定義は構造主義のみならず、それに対する批判としてのポスト構造主義までをも牽引し続けた。何かそれに匹敵するような哲学的な知が、映像についても必要ではないだろうか。
本連続講義は以上のような問題関心のもとに、現在、創作および研究の第一線で映像に関わっている方々の知を共有し、その哲学的な意味を探ろうとする実験的な試みである。
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