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最終更新日:2026年10月16日
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現代人類学特論a
内なる他者の人類学ー-「とるに足らない」とされたものとともに
「とるに足らない」としていたものが、あるとき、人類学的探究を導くことがある。例えば2020年の春、新型コロナウイルス感染症によって、世界中の各地で人々は様々な行動変容を迫られた。日本では「三密」を避けることや「ソーシャル・ディスタンス」を意識することが当たり前になった。その一方で、家でパンを焼いたり、オンラインのゲームや飲み会をしたり、近所の散歩をしたり、それまでやらなかったことを始めたりもした。多くの場合それは家の中や、その周辺という狭い範囲で(その一方で、近所の人びとに迷惑をかけないと、夜中、大きな声を出す子どもを乗せて車を走らせた人もいる)。そんななか、見えてきたものがある。私の場合、その一つが大学時代のフィールドワーク演習で録音したカセットテープであり、祖母がくれた彼女の書の作品集だった。部屋の片隅にずっとあったそれらのものが、あの時雄弁に語りはじめ、わたしが生きていた世界の知らなかった断面を開いた。やがてわたしは祖父の家にあった、雉の剥製の来歴について考えるようになった。
赤坂憲雄は「<内なる他者>とは排泄物である」と言う。もともと身体の内側にあった体液が、分泌された瞬間に忌み嫌われるものになるとともに、聖なるものに転化する逆転の瞬間を持つ。一方「とるに足らない」とされたものはその手前にあり、忌避されることすらなく、無視され、忘却され、やがて朽ち果て、捨て去られていく。しかしその潜勢力に気づくと、目の前に現れていく世界の断面がある。「とるに足らない」とされたものという問題意識をもって、内なる他者(やその延長にあるメアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』などの汚穢論)をめぐる議論を拡張する。
この授業の半面は、そうやってある時わたしの人類学的探究を導いた存在を取り上げ、そこのでの思考の軌跡を語るものだ。それは知的障害があるとされるわたしの兄であり、見沼田んぼという空間であり、原子力発電所や放射性物質であり、そして雁皮という植物やそれを原料にしてつくられた紙(和紙/謄写版原紙など)である。そうやって見出していったものを追いかけていくうちに、気づけばわたし自身が何者のかということを考える契機が生まれる。それはすぐれて人類学的経験であり、その意味を深める。
もう半面は、同じように履修者が見出した「とるに足らないもの」との出会いの意味をともに探るものだ。誰もが人類学者になる必要はないが、誰もが人類学をすることはできる。そしてそれは遠くの土地に出かけていなくても、今この場所から、ふと瞬間に始めることができる。そうやって発想を転換したとき、人類学という学問がこれまで積み上げてきた、様々な思考の手がかりを与えてくれる。
この二つの半面が刺激し合いながら、身近な対象を人類学的思考に結び付ける力を手に入れることを目指す。そのため、授業の成果物として「とるに足らない」とされるものについて、小さなエスノグラフィーを書きあげる。
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