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最終更新日:2024年4月22日

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文化人類学特殊講義(災害の人類学)

「私が学び模索してきた人類学:フィールドワークから民族誌の作成、そしてその先の長い道のり」
 人は時代と社会の子であり、文化人類学者も各々が生きる時代と社会の制約と可能性のなかで暮らし、学び、仕事をしています。そのことを私自身の経験を振り返りながら、なるべく具体的にお話しします。
 フィールドワークの現場では特定民族/コミュニティの社会・文化を、当該社会の人たちに生きられている日々の暮らしのコンテクストのなかで理解しようとします。テクストだけでなく、それを意味づける広い社会・文化・宗教・政治的なコンテクストへの目配りが不可欠です。
 そして参与観察と称される人類学の方法では、客観的に冷静に傍観者として観察するわけではありません。自然科学が野外で行う測定機器を用いた観測や標本資料の採集とはまったく異なります。また霊長類学のフィールドワークでは群れの近くに身を置いて近い距離からの観察をしますが、相手の発言や発話を傾聴して理解を深めたりするわけではありません。
 それに対して人類学のフィールドワークでは観察するとともに、当事者や関係者からの話や説明を直接に聞くことがきわめて重要です。そのためにはラポール(相手との信頼関係)が重要であると入門書で強調されます。しかし私自身は、ラポールという外来語が今ひとつピンと来ないので今までほとんど使ったことがありません。
 代わりに応答(respons-ability)という言葉を使ってきました。教会で歌われる黒人霊歌の歌唱法をイメージしています。リーダー(メインボーカル)の呼びかけに聴衆(コーラス隊)が応える(時には逆方向もある)掛け合いです。ただし黒人霊歌の場合と異なるのは、フィールドワークではコミュニティーの人たちも声をかけ呼びかけてくるのです。人類学者はそれに応えながら調査を進めます。呼びかけは単に家族の医療費や子供の学費、コミュニティー・プロジェクトなどへの協力だけでなく、儀礼その他の彼ら自身の意味付与実践の開示や説明なども含まれます。
 本講義では1972年に文化人類学科に進学してから現在に至るまでの50年にわたる私の経験を紹介しながら、日本の人類学の歩みを振り返ります。それは学生への講義という以上に、私自身がこの先へラディカルに進んでゆくために現在の居場所の確認と反省作業の一助とするためでもあります。
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時間割/共通科目コード
コース名
教員
学期
時限
08C102309
FAS-CA4B22L1
文化人類学特殊講義(災害の人類学)
清水 展
S1 S2
集中
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講義使用言語
日本語
単位
2
実務経験のある教員による授業科目
NO
他学部履修
開講所属
教養学部
授業計画
 今までに日本語で5冊、英語で3冊の単著書(民族誌)を出版しています。それらは、各々を執筆している時期の流行理論や研究動向に刺激を受け、それへの反応やコメンタリーとなっています。必ずしも直接的な批判をしているわけではありませんが、ていねいに読めば分かるhidden agenda が込められています。それらのアジェンダにも触れながら、フィールドワークをして民族誌を「書く」ことの楽しさと苦しさ、面白さや可能性などについてお話しします。 ー参考文献ー  清水展 2020「外部思考=感覚器官としての異文化・フィールドワーク:ピナトゥボ・アエタの40年の関わりで目撃した変化と持続、そして私の覚醒」『東洋文化』100号、pp.41−76。  清水展 2016「巻き込まれ、応答してゆく人類学:フィールドワークから民族誌へ、そしてそ
授業の方法
 ビジュアル資料(パワーポイントと映像)を使い、具体的なイメージと理解が容易に得られるようにします。また私の一方的な説明ではなく、なるべく質疑応答の時間を取りたいと思います。  具体的には、以下の5冊の民族誌を取り上げて紹介し、議論の素材とします。 1. 2019年『出来事の民族誌:フィリピン・ネグリート社会の変化と持続』九州大学出版会、pp.384頁+ v。(1990の新装版)  1977年から1979年までの20ヶ月にわたる西ルソン・ピナトゥボ山麓でのフィールドワークにもとづいて作成した博士論文「フィリピン・ネグリート社会の変化と持続」(東京大学、1987年)を底本とした民族誌。英語版では博論の一部を割愛し、日本語版は博論に大幅な改訂を加えた。いずれもレヴィストースが提唱した「熱い歴史」と「冷たい歴史」という対比的な概念により、アジア系のネグリートであり移動焼畑と補助的な狩猟・採集を生業とするアエタ社会が、 日常生活の連続を断ち切るような出来事にいかに対処対応し、平穏な日常を回復するかのプロセスを詳細に分析する。 2. 1991年 『文化のなかの政治:フィリピン"二月革命"の物語的理解』弘文堂、pp.234。  1986年2月22日〜25日の4日間、数万から数十万人のマニラ市民がアギナルド基地の前のエドサ 通りに集まってヒューマンバリケードを築き、反マルコスのクーデターに失敗した国軍改革派将校らの決起軍を守った。最終的にマルコス大統領がハワイに亡命した無血の平和革命が成功した経緯に関する考察。1983年8月21日にマルコス大統領の最大の政敵であったベニグノ・アキノ元上院議員が、亡命先のボストンから帰国した際、飛行機内から彼を連行した兵士によってタラップを下りる途中に後ろから後頭部を撃たれて暗殺されたことが、革命への導火線の最初の火花となった。   暗殺の危険をイメルダ夫人が警告し、アキノ自らも言及しながら帰国したことで、アキノの暗殺は国民英雄のホセ・リサールやイエス・キリストの処刑と同様に、預言され予告された自己犠牲、すなわち殉教・殉国というフィリピン文化の深い神話の範型になぞって理解された。そのことが以後の政治状況を一変させ、マニラ市民が頻繁な街頭デモと集会に参加し、大統領選の繰り上げ実施をもたらし、さらに1986年2月のヒューマンバリケードへの参加を導いた。政治過程を有力政治家や政党間の闘争や妥協として分析する政治学への批判と、草の根デモクラシーの精神世界を理解する分析として、政治学をはじめとする関連分野の専門家から高い評価と反発(「恣意的解釈であって実証的でない!」)を受ける。 3. 2021年 『噴火のこだま:ピナトゥボ・アエタの被災と新生をめぐる文化・開発・NGO』九州大学出版会。(2003年の新装改訂版) pp. 358。  1991年6月の西ルソン・ピナトゥボ火山の大噴火による被災から10年にわたるピナトゥボ・アエタの復興の歩みの報告と分析であり、同時に、NGOボランティアとして支援活動に積極的に関わった自身の活動に関する、文化人類学者としての内省的な分析。ピナトゥボ・アエタは噴火被災の苦難を、中央と地方の政府をのほか国内外のNGOなど多方面の支援によって乗り越え、フィリピン国民であり同時に先住民であるとの強い自覚を持つに至り、民族として新生した。  アエタ被災者は、ピナトゥボ山麓に限られた領域で移動焼畑農耕を主たる生業とする生活から、再定住地で補助的な農耕をしつつ、建設労働者や農業賃労働者、インフォーマル・セクターでの就業などで生計を立てるに至った。子どもたちは学校に通い、20年を経た現在、中東などへ海外出稼ぎにゆくものも出てきた。産業革命以降の200年ほどのあいだに、人類社会が等しく経験してきた生業と生活様式と時空間意識の変容を、アエタは10年あまりで経験したのである。被災を、新しい人間・新しい社会の産みの苦しみに変えたアエタ社会のレジリエンスについて、噴火以前からの頻繁な移動とリスク分散の生活戦略が、外部世界からの支援とあいまって有効に機能したことを明らかにした。 4. 2013年『草の根グローバリゼーション:世界遺産棚田村の文化実践と生活戦略』京都大学学術出版会 450頁。  北ルソン・コルディエラ山脈のイフガオ洲ハパオ村で1997 年から2012年まで毎年繰り返した現地調査にもとづく民族誌である(現在も継続中)。ピナトゥボで被災者の支援活動をした経験をさらにラディカルに進化=深化させ、コミットメントの人類学にチャレンジした。現地の住民主導の植林運動に積極的に関与し、リーダーの要請に応じて日本の小さなNGOを紹介し、それがJICAの草の根支援プロジェクトを初めとする助成を申請するための計画立案や申請書作成に協力した。幸い、7〜8年にわたり日本の5団体から計8,000万円ほどのプロジェクト支援を得て25万本の植林をした。そのほかの社会開発プロジェクトの実施にも関わり、開発に関与する人類学を試行した。  また調査村ハパオ村の一帯は、アジア太平洋戦争の末期に山下奉文将軍率いる日本軍の主力部隊が3ヶ月ほど立てこもった要害の地であり、1970年代後半から80年代後半までは共産党新人民軍の山岳拠点となった。そのような山奥の村も、壮麗な棚田群がユネスコの世界遺産に登録されて(1995年)外国人観光客が訪れるようになり、逆に過去20年ほどのあいだに350世帯1,800人のハパオ村からは170人の村民(3/4は女性)が海外出稼ぎをしている。行き先は、香港、台湾、シンガポールをはじめ中東や欧米など、27ヶ国におよぶ。  イフガオは、フィリピンの辺境の奥地にあっても決して外部から孤絶しているのではなく、かつてはスペイン軍、 アメリカ軍、日本軍、共産党新人民軍などが侵入する「コンタクト・ゾーン」(西欧近代と非欧米社会との接触・交流・確執の接点)であり、現在は出稼ぎ労働者を大量に送り出すことによって世界と直接に結ばれていることを明らかにした。そのことが仕送り資金による欧米的スタイルの家屋の新築や衛星放送の受信アンテナ+テレビをはじめ、彼らの生活スタイルを急速に変えるとともに、逆に伝統的な祭礼の復活や民族意識の覚醒と強化などをもたらしている。すなわちグローバル化がローカル化を強化しながら進行する「グローカル化」の実体と意味を考察し、そうしたなかで植林運動への積極的な関与の経験をとおして、人類学が草の根レベルの国際公共ネットワークを編み上げる小さな糸になるべき貢献を主張した。  * 第11回日本文化人類学会賞受賞(2016/5)。    第107回日本学士院賞受賞(2017/3)。 5. 2024年『アエタ 灰のなかの未来:大噴火と創造的復興の写真民族誌』京都大学学術出版会、304頁。  1977年から79年までのカキリガン村でのフィールドワークに始まり、1991年のピナトゥボ火山の大噴火を経て現在(2023年2月の調査時)に至るまでの47年におよぶカキリガン・アエタとの長いお付き合いに関する写真民族誌。たまたま大噴火(91年6月15日)が私の不惑の歳の誕生日に起こり、しかもその年の3月末からサバティカルでフィリピンに1年間の滞在を始めていた。そのことに何かしら不思議な因縁を感じ、被災者となったアエタの友人知人の災害救援をする日本の小さなNGO(アジア人権基金/AVN)の現地ボランティア・ワーカーとなった。人類学者でNGOワーカーとしてアエタと伴走しながら私は日本の新聞、雑誌などに発信するレポーターともなった。彼らとの付き合いは、その後も今に至るまで続いている。  そうした長い付き合いをとおして私は、アエタがフィリピン国民であり同時に先住民でもあるとの自覚を強めフィリピン社会のなかに居場所を確保していった経緯を身近に目撃することができた。彼らが「創造的復興」を成し遂げ、民族として新生していった潜在力は、移動焼畑と狩猟採集で培われた自然環境と動植物に関する深い知識と多種多様な動植物を食料として利用する技術を保持し続けたことにある。それらが時々の必要に応じて活用されて現在に至るのである。すなわち食料獲得方法(手段)の「重層的並存」は東南アジア諸地域の周辺民族(山地民)に見られる特徴であるが、それをアエタの側の主体性に着目して捉えれば、生存のための「生業多角化戦略」と言うことができる。  
成績評価方法
 平常点(講義での積極的な発言や発表)およびレポート。
教科書
清水展 2024年『アエタ 灰のなかの未来:大噴火と創造的復興の写真民族誌』京都大学学術出版会、304頁。
参考書
 清水展・飯嶋秀治(編著)2020『自前の思想: 時代と社会に応答するフィールドワーク』京都大学学術出版会、444頁。
履修上の注意
清水展 2000「外部思考=感覚器官としての異文化・フィールドワーク:ピナトゥボ・アエタの40年の関わりで目撃した変化と持続、そして私の覚醒」『東洋文化』100号 と  清水展2002「横須賀ネイティブの自文化=自分化グラフィー : 文化人類学における他者表象をめぐる内省から」 『東洋文化』102号 を事前に一読しておいてください。    東京大学学術機関リポジトリ(UTokyo Repository)からアクセス・閲覧できます。