学部後期課程
HOME 学部後期課程 心理学特殊講義IX
学内のオンライン授業の情報漏洩防止のため,URLやアカウント、教室の記載は削除しております。
最終更新日:2026年4月20日

授業計画や教室は変更となる可能性があるため、必ずUTASで最新の情報を確認して下さい。
UTASにアクセスできない方は、担当教員または部局教務へお問い合わせ下さい。

心理学特殊講義IX

授業の目標
この授業では、認知心理学が半世紀をかけて積み上げてきた知覚・注意・記憶・意思決定・感情・学習に関する理論的知見を出発点としながら、情報学の方法論(モバイルセンシング、デジタル行動ログ、大規模言語モデルやクラウドデータ、計算論的モデリングなど)を理解し、これらがなぜ日常文脈での認知研究に必要とされるかを、具体的な研究例をもとに理解する。さらに、これまで実験室研究が誤差として捨象してきた個人差・個人内変動・環境と状況の多様性を正面から研究対象として扱い、認知の普遍性と多様性の境界線を問い直す視点を獲得することで、認知心理学の学問の広がりを理解する。

授業の概要
今日の認知心理学は、いいようのない閉塞感に直面している。多くの研究者や学生が、記憶・注意・思考・判断など、人間の認知機能のほんの一部しか解明できていないと感じているにも関わらず、同時に「面白いテーマが見つからない」「新しい発見が出尽くした」という感覚にとらわれているのではないだろうか。この逆説はどこから来るのか。実はこの状況は、認知心理学の創始者であるNeisser自身が、半世紀近く前にすでに予見していた。Neisserは1967年の著書『Cognitive Psychology』で認知心理学という分野を確立したにもかかわらず、9年後の1976年に『Cognition and Reality』において、自らが作り上げた学問に根本的な問題提起を行なった。彼は、認知心理学が「無意味綴りの記憶」や「短時間提示された単語の認知」など、現実の生活とかけ離れた人工的な課題の研究に終始しており、人間が日常の文脈の中で実際に行っている認知とはほとんど関係がないという点を指摘した。Neisserはこれを「生態学的妥当性の欠如」として批判し、認知心理学は実験室の外に出て、人間が実際に生きている環境の中での認知を研究しなければ、いずれ行き詰まるであろうと訴えた。しかし、この創始者自身による自己批判は、今日まで真剣に顧みられることはなかった。その後の認知心理学は、Neisserの警告を脇に置いたまま、実験室という容れ物の中で問いを深めることを続けた。
その帰結が、今日の心理学の「再現性の危機」だと言えるかもしれない。認知心理学が長年にわたって「研究できるもの」を「研究すべきもの」と同一視してきたことが、その根底にある。統計的な精度を上げるために実験室で統制できる課題、反応時間や正答率として計測できる行動、均質な参加者集団からのデータ収集などが行われてきた。これらが「科学的な認知心理学」の標準となった結果、研究の問いはその枠の中に収まるものだけに絞り込まれた。その結果、過去の研究が再現できないという問題に直面したのが再現性の危機問題である。さらに、再現性危機への処方箋として提唱されている事前登録・大規模サンプル・多施設共同研究といった対策が、「再現しやすい研究」を標準化する方向に研究者を誘導し、結果として日常文脈をさらに捨象する圧力を生み出している。再現可能だが生態学的に妥当でない研究が積み重なっても、人間の認知の理解は深まらない。
この講義では、その実験室という制約を取り払うことを試みる。認知心理学が半世紀をかけて積み上げてきた理論的知見である記憶・注意・意思決定・感情・学習のメカニズムに関する問いを出発点としながら、それらを日常の文脈の中で問い直す。そのために、情報学の方法論に着目する。スマートフォンやウェアラブルデバイスによる日常行動の痕跡の記録、経験サンプリング、大規模言語モデルやクラウドデータの解析、ロボットを用いた研究、計算論的モデルなどの技術的条件が揃ったことで、Neisserが訴えながら当時は方法論的に実現できなかった問いに、あらためて向かうことが可能になったといえる。
実験室では誤差として相殺されてきた個人差は、日常文脈の研究においては問いの中心になる。同じ人でも、朝と夜で、職場と自宅で、一人のときと他者と一緒のときで、認知のパターンは大きく異なる。この個人内、あるいは個人間変動こそが「生きた認知」の姿であり、これまでの認知心理学がほとんど手をつけてこなかった領域だ。さらに、人間の認知は職場・家庭・移動中・会話といった質的に異なる多様な環境の中で機能しており、注意・記憶・判断・感情はそれが機能する環境によって質的に異なる様相を示す。この講義の目的は、認知の普遍性と多様性を問い直すことである。
この講義が目指すのは、閉塞感が、実は「これまで問えなかった問いがまだ山積している」というフロンティアの予感と表裏一体だということを、具体的な研究事例と方法論の習得を通じて実感してもらうことである。Neisserが半世紀前に見通しながら実現できなかった研究が、認知心理学の理論的蓄積と情報学の方法論的によって、可能となりつつあることを解説したい。
MIMA Search
時間割/共通科目コード
コース名
教員
学期
時限
04264149
FLE-XX4X02L1
心理学特殊講義IX
熊田 孝恒
A2
集中
マイリストに追加
マイリストから削除
講義使用言語
日本語
単位
2
実務経験のある教員による授業科目
NO
他学部履修
開講所属
文学部
授業計画
(1) 認知心理学とは:一つのあるべき姿と現状 認知心理学が直面している閉塞感と再現性の危機を概観し、その根源が実験室という方法論的枠組みの構造的限界にあることを論じる。Neisserの自己批判(1976)を軸に、「生態学的妥当性の欠如」という問題を歴史的・哲学的に位置づける。 (2) 還元主義の系譜——行動・脳・シンボルへの還元 行動主義・脳神経科学・大規模言語モデルという三つの還元主義の波を概観し、認知心理学自身が情報処理モデルという還元主義を内側から推進してきた当事者でもあったことを論じる。三つの還元主義に共通する構造である、個人・文化・環境・文脈の捨象について整理する。 (3) 日常文脈での認知研究の哲学的・方法論的基盤 Brunswikの確率論的機能主義と代表設計の概念を中心に、日常文脈での認知研究が依拠する哲学的・方法論的基盤を論じる。客観的計測とモデルベースの理解を維持しながら、なぜ情報学の方法論が論理的に必要とされるかを整理する。 (4) 経験サンプリング法とモバイルセンシング 経験サンプリング法(ESM)の理論的背景と、スマートフォン・ウェアラブルデバイスによるデジタル実装を解説する。加速度計・GPS・心拍データ等と心理変数の対応付けの方法論、および研究倫理上の問題を扱う。 (5) デジタル行動ログの心理学的解釈 検索履歴・アプリ使用記録・移動軌跡などのデジタル行動ログが、「文脈を保持したままの認知的行動の客観的記録」という新たなデータ類型として持つ方法論的意義を論じる。ログデータの利点と限界、解釈上の問題を整理する。 (6) 自然言語処理と心理学的構成概念の計量 テキストデータ——SNS投稿・日記・会話ログ——から心理変数を抽出する手法を概観する。LIWC・トピックモデル・大規模言語モデルを用いたアノテーションを取り上げ、心理学的妥当性の観点から各手法を比較検討する。 (7) 記憶の日常文脈研究 符号化特異性・検索誘発忘却・外部記憶の理論を前提に、デジタル環境が記憶方略と記憶成績に与える影響の実証研究を検討する。「Googleエフェクト」研究を事例として、ラボ実験とフィールドデータの知見の対応と乖離を議論する。 (8) 注意の日常文脈研究 注意の制御理論と認知負荷理論を前提に、スマートフォン通知・マルチタスク・環境騒音が注意に与える影響の日常文脈研究を検討する。「注意」という構成概念の日常場面での操作化がいかに難しいかに焦点を当てる。 (9) 意思決定の日常文脈研究 二重過程理論とプロスペクト理論を前提に、A/Bテスト・フィールド実験・自然実験の手法を用いてUI設計や日常的な選択場面が意思決定に与える影響を測定した研究を検討する。大規模フィールド実験における因果推論の問題を論じる。 (10) 感情と動機づけの日常文脈研究 感情の価—覚醒モデルと感情調整理論を前提に、ESMと生理センサを組み合わせた日常の感情変動研究を検討する。自己報告感情データと生理データ・行動ログの乖離問題、および感情の個人内変動と個人間差異を扱う。 (11) 空間認知と移動の日常文脈研究 認知地図とランドマーク理論を前提に、GPSトラッキングデータと地図アプリ使用ログを用いた空間学習・ナビゲーション研究を検討する。デバイス依存が空間認知能力に与える影響の因果的検証の難しさを議論する。 (12) 体験と学習の日常文脈研究 一期一会など、1回の体験がどのように人間の信念や行動を変えるのかに関する研究を取り上げ、これらをベイズモデルなどで記述するアプローチについて紹介し、実験心理学における繰り返し測定の原則に対して、どのような新しいアプローチが可能かを議論する。 (13) 認知機能の個人差としてのパーソナリティに関する日常文脈研究 SNS投稿・行動ログ・ESMデータを用いたパーソナリティの計量的推定研究を取り上げ、実験室での質問紙測定では捉えられなかった「日常場面でのパーソナリティの発現」を研究対象とすることの意義を論じる。また、パーソナリティの個人差を「誤差」として除去するのではなく、認知の個人内変動と個人間差異を説明する変数として積極的にモデルに組み込む方法論的アプローチを議論する。 (14, 15) フォローアップ、まとめと総合討論 授業全体を通し、説明が不十分であったところや、授業中に出た疑問点などについて、補足的な解説を行うとともに、全体を通じてのメッセージをあらためてまとめて、全体的な理解を促す。
授業の方法
講義を中心に行うが、グループディスカッションなどを通じて、自己理解を深めるとともに、広い視野からの理解を促す。
成績評価方法
レポート70%、授業への参加度(発言、質疑など)30% 一定回数以上、出席したものを評価対象とする。
履修上の注意
概論レベルの心理学の知識を有することが望ましい。講義内容について、不明な点については、復習すること。